自然と共に生きる。治水の歴史と水の妖怪たち。(その1)
鬼怒川氾濫から1週間以上経ちました。まだその爪痕は痛々しく残り、まるで東日本大震災を思い出させるかようです。さて、こうした水害は地震と同様に古代から度々発生しており、人々は生きるために自然と共生し、時には闘ってまいりました。これからその歴史を少し勉強してみましょう。
- 古代から中世まで
弥生時代のお話です。我々は農耕民族ですから水害は死活問題。命に直結するものでした。稲作を行う場所としては河川下流域の湿地や海岸の砂州、などが選ばれたようですが、鎌倉時代になっても、大規模な治水は行われず。水害の度に致命的な被害をうけており、農民たちの生活は満たされることはなかったといいます。 - 戦国時代から江戸時代前期まで
戦国時代では各地の武将が大きな力を手にするようになりました。彼らは、土木事業の指揮者でもあったのです。治水を行い、自分の治める領土の国力を上げることが、戦国時代を生き抜くためには必須であったからなのです。有名なところで言えば山梨県で武田信玄公が手がけた「信玄堤」、笛吹き川の「万力林」でしょうか。
信玄堤
万力林 - 江戸時代後期から第2次大戦まで
江戸時代後期には、「紀州流」という技法が一般化するんです。この方式は井沢弥惣兵衛によるもので、堤防を強固につくって氾濫を防ぐ方式です。今までは川を曲がりくねらせて流れを緩やかにさせる方法でしたが、堤防を固くし、川を直線にすることで一気に流してしまうようにしています。今までと大きく違うのは「洪水と共生していこう」という考えから「洪水を無くしてしまおう」という欧米的な思考に変わったところです。欧米の近代科学技術が日本に浸透するにつれて、科学技術の力によって自然を征服できるのではないかという、欧米的な自然観が定着していったのです。 - 第二次世界大戦後
「自然を制御してやろう」という自然観に変わってきた日本。大戦終了後は大規模なダム建設ラッシュ時代に突入します。治水のための巨大ダムの他、発電のための利水ダムも多く建設され、山が削られ自然が破壊されていきました。完全に水底に沈んでしまった村もあります。
黒部ダム
自然と共生していた時代は、洪水を起こさせないのではなく、洪水が起きることを前提として被害を最小限におさえる工夫をしていました。人々の意識もそれぞれ高く、自然を敬い、畏れてきました。大戦後、自然観が変わり川が直線に整備され水の勢いがましたことで、平常時に自然を意識することは大幅に減りましたが、今回の水害のようにひとたび制御の限界を超えると、押さえつけられていた自然は人々に報復するかのように猛威を振るいました。山が削られ、堤防が壊され、家がまるごとながされていましたよね。
さて、ここでいつもの流れに戻りまして妖怪の話もしましょう。2の江戸時代後期あたりからは妖怪が娯楽として消費されるようになった一方で、技術の進歩により自然(河川の洪水)を制御する思考に変わってきた日本。自然の化身である妖怪たちは、徐々にその住処を追われていきます。巨大ダムの建設などとともに水底に沈んでしまった伝承(妖怪)もあるでしょうし、治水により発生しなくなった妖怪現象も数多くあるのです。それらの伝承や妖怪の中には自然と共生した頃の人々の自然観が詰まっているかもしれません。次の記事ではそんな洪水・治水にまつわる妖怪たちをご紹介します。
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