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【節分回】鬼は滅せられるべきなのか?

鬼は滅せられるべきなのか?

やぁ皆さん。ちっとだけみでっで。妖怪屋です。
今回は節分にちなんで、鬼について書いてみます。鬼は節分などの風習もあいまって古来より忌み嫌われるものの存在として認識されてきました。ですが、地域によっては「鬼は外」とは言わず鬼を避けたりせず、むしろ「鬼は内〜」などと掛け声をかける地域まであるといいます。鬼は、本当に滅せられるべき存在なのか?基本をおさえつつ、妖怪屋視点から考えてみることにしました。

鬼とは?

鬼というのは、一般的には「日本の妖怪」とされていて、「隠(オヌ)」から転じたものという説や海外からの移民説、まつろわぬ民(権力に抗い迎合しない)という説などなど諸説ありまくりです。海外にも「オーガ」「ゴブリン」「トロール」など鬼のような怪物もいますが、「オニ」と呼ぶものは日本発のようです。

鬼の特徴

鬼は一般的に以下のような特徴を持ちます。

  • 角:一本、または二本
  • 衣:虎柄のパンツ
  • 牙:鋭い牙が下顎から二本
  • 色:赤、青、黄、黒、緑(原色)
  • 髪:金髪チリチリパーマ
  • 武器:金棒

派手…ですよね。大阪の派手なおばちゃんか?と思うコーディネートです。

鬼の性格と豆まきの関係

実は鬼は色により性格が違うらしいということこちらの記事で知りました。以下に列挙してみますね。

  • 【赤鬼】(貪欲、欲望、渇望)は、人間の悪い心の象徴。豆をぶつけることで、自分の中の悪い心が取り除かれる。
  • 【青鬼】(瞋恚、悪意、憎しみ、怒り)は、貧相の自分自身に豆をぶつけることで、福相・福徳に恵まれる。
  • 【緑鬼】(惛沈睡眠、倦怠、眠気、不健康)は、不摂生を反省して体を健康に保つことを自分に言い聞かせながら豆をぶつけると良い。
  • 【黒鬼】(疑、愚痴、疑いの心)は、豆をぶつけることで、自身の卑しい気持ちを追い払い、平穏を願う。
  • 【黄鬼】(掉挙悪作、心の浮動、後悔、甘え、我執)は、豆をぶつけることで自己中心的な考えを反省し、公平な判断ができるようになる。

これらはどうも仏教の地獄の教えにルーツがあり、獄卒の鬼たちに設定されている特徴のようです。興味深いのは鬼に豆をぶつけつつも「自分自身」に対して願ったり気をつけたりするという事、どうやら仏教的にいえば地獄は「自分が生みだした苦しい状態」であり獄卒の鬼どもはそれらを現する己の心ということだそうです。「隠(オヌ)」から生じる由縁として、仏教的視点から自分(他人)の内にあるものだから通常は見えないということなのでしょうね。ちょっと深くなってきました。また、節分の豆は歳の数だけ食べるというのもあります。それは歳を重ねた数だけ自分の内に鬼が増えていくので、内に棲まう鬼を滅するべく、豆を食べるのかも?ともとれます。もう少し人間と鬼の関係性について踏み込んでみましょう。

鬼は人間から生ずるものなのか?

鬼をはじめとしていくつかの妖怪は人間が都合よく人を差別したり支配するために生じたものであったりします。大江山の酒呑童子もその代表例でしょう。鬼はまつろわぬ民、人間はそれを組み伏せる英雄。そのような構図が日本のみならず、全世界でもあったりします。とりわけ、自然(河川等)vs人間の構図だとしばし、龍やドラゴンと対峙したりしますが、人間vs人間だと、敵側は醜悪な鬼や化け物として描かれることが多いですね。

さて、ここまでで鬼の正体、由縁としては大きく二つとりあげてまいりました。一つは、「人を差別したり支配するために人が創りしもの」。もう一つは「己の内に生じるもの」。どちらも、人間から生み出されているように見えますね。そしてそのどちらも、決して陽の気から生まれてきたものではなさそうだということが見てとれます。支配、差別、己の執念、不摂生、愚痴、疑心、後悔、甘え、不健康、怒り、欲望。鬼とは人間の抱くあらゆる陰の気から生じているようです。確かに、これらを象徴したような姿になっているように思います。昔から人々は恐怖の対象として鬼を描いてきたのでしょう、「自らの内外に巣食うもの」として具現化したもののように思います。ちなみに仏教では「鬼が仏になる」方法が真髄として教えられています。仏教を布教するためのツールとしての鬼、という側面もありそうです。

鬼(陰の気)は滅するべきなのか?

鬼の生ずる理由について触れてきましたが、どうもこれだけだと人間から生じたあらゆる「陰の気」のものというイメージしかありません。普通に考えると、豆をぶつけて魔を滅する(豆)ことで一件落着めでたしめでたしのように思います。が、本当にそうでしょうか?まつろわぬ民から生じた鬼に関しては、支配される側、つまり「まつろわぬ民」の視点になると180度変わってしまいます。勝手に陰のものとされ、恐ろしい鬼扱いされてしまった「人間」たちです。中には生きるために仕方なく抵抗する人々もいたでしょう。権利を行使する側が、欲望にとりつかれた「鬼」だったのではないかとすら思います。

また、自身の内にある鬼についてですが、もともとは「自分自身」ですから、私個人的には滅するだけが正解ではないと思っています。仏教の教えの通り、自らを律して健康に健全にというのは理想であり、全ての陰の気を排除することなど相当に心の修行を積んだものですら無理だ思っているからです。それほどに自分自身の内に潜む鬼というのは「手強い」相手です。ダイエットが続かない?怒りっぽい?疑ってしまう?それこそ、ありのままの自分だと思いませんか?情報過多で疑念や陰の気が渦巻くこの世の中で、それらを叩き潰して消し去ろうなんて、逆にできないと思って構えていたほうが気が楽です。滅するのではなく、自分の中の鬼と「うまく付き合っていこう」というのを提案したいと思います。時々、鬼に餌をやるのです。疑ってしまう自分を認める、怒ってしまう自分を自分でなだめる。もしかしたら節分の儀式というのは昔からそうで、滅するわけではなく、滅する「つもり」で自分と向き合うための行事だったのかもしれませんね。もしかしたら、それらを滅するつもりで取り組むと、それこそ、その人自身が「鬼」に成ってしまうかもしれませんね(笑)。くわばらくわばら。

妖怪屋的には

「鬼も仏も 紙一重、何事もやりすぎ注意」 

です。ほどほどに妖怪的にゆるーく生きましょ。光ある所に影はできるものです。陰陽のバランスが大事!

鬼に関する記事

さて、今回は陰の気としての鬼を紹介しましたが、次回以降タイミングをみて人々の陽の気から生じ、畏敬の念を抱かれる存在としての鬼を紹介する記事を描いてみたいと思います。

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