土蜘蛛のバラッド
どうも、自他ともに認める田舎に住んでいますが、大渋滞で電車を乗り過ごしそうになりました、神代です。通常10分で行ける所に40分かかる日があります。焦りますよね。
さて、都会にお住まいの方は『田舎』という単語からなんとなく「人が温かい」「渋滞がなくストレスフリー」「物価が安そう」のようなイメージが浮かんでくるのではないでしょうか。
しかし、実際は田舎にも渋滞はありますし、物価は店舗を選べば概ね都会の方が安く手に入ると思います。もちろん田舎は田舎で良い所がありますし、どちらを比べようというわけではないのですが。
ともかく、こんな風に我々は、印象、イメージについて、その名称から多大に影響を受ける事が多いのです。今も昔も同様に。
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昔、『土蜘蛛』という妖怪がいました。鎌倉時代の有名な妖怪ハンター『源頼光』を熱病で犯して苦しめましたが、法師に化けて現れ弱った頼光を捕縛しようとしたところ、早々にその正体を見破った頼光に名刀・膝丸で斬られ、後に退治されたという妖怪です。(頼光の刀、膝丸が『蜘蛛切』と呼ばれるのはこのエピソードが由来しています。)
土蜘蛛は法師に化けてのこのこ現れなければ頼光を討てたのではないか、とか、何故攻撃ではなく捕縛!?みたいなツッコミどころはあるのですが、弱った獲物を自ら糸に巻いたあと食すという蜘蛛の習性を忠実に再現していると思えば辻褄が合います。私見ですが、妖怪は例え人間のような知性を持っても生物としての特色は色褪せないのではないでしょうか。
ちなみにこの時退治された土蜘蛛の死体は、頼光に鉄串に刺されて河原に晒されたそうです。どっちが悪者なんですかね。
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そして、実はこの『土蜘蛛』という名前ですが、鎌倉時代よりずっと前に全く別の意味として使われていた過去があります。
西暦300~500年の大和朝廷時代、天皇に恭順しなかった『人間』は神に従わない異形の民族『土蜘蛛』と呼ばれ、朝廷は彼らを正義の名の下に攻撃していました。
この、恭順をしていないというのがポイントで、土蜘蛛の中でも朝廷に明確に反抗していた勢力はごく一部でした。その他大勢の土蜘蛛はそれぞれのコミュニティで、侵略を避けて各々の生活を送っていただけなのです。ただ、朝廷の支配を受け入れなかっただけで彼らは『人ではない物』とされてしまいました。
さて、冒頭に話した通り、名前はイメージを、印象を縛ります。『日本書紀』の中には土蜘蛛についての記述がありますが「狼の性質と、梟(フクロウ)の情を持ち、小人に似ている。身体は短く、手足は長い」と普通の人間とは違う、化物のようだという捉え方をされています。一説によるとこれらの特徴は、身体が短く手足が長いなど土「蜘蛛」という名前の影響を受けて異形の容姿に描かれたと言われています。
思うに土蜘蛛という名称はただのレッテル貼りだったのでしょう。奴らは朝廷に逆らう土蜘蛛だから何をしても良い、例え攻め滅ぼしてもそれは善行だと大衆を導くための。今も昔も正義の鉄槌を下すのが人間は大好きですから。いや、本当に、どっちが悪者なんでしょうかね。
ただ、一つだけ不思議なのが、日本書紀より前の書物『古事記』に登場する神武天皇に討たれた土蜘蛛の一派、それらの死体には尻尾があったというんですよ。
日本書紀と同様に、土蜘蛛という名称に影響を受けたとしても、わざわざ尻尾なんていう蜘蛛としては目立たない要素を選ぶでしょうか。しかも、以降の書物には尻尾の記述は存在しません。土蜘蛛が蔑称になる前、本物の怪物『土蜘蛛』は存在したのか……まさかね。
(画像:今昔図画百鬼)
そもそも、『まつろわぬ民』の全てが人(ホモサピエンス)であったのか?という疑問も出てきます。
現代ですら雪男やビッグフットの正体はギガントピテクスの生き残りだという説が唱えられていますし、いわんや二千年間前には大型の高等類人猿や原始人類が本当に生き残っており、特異な集団生活を送っていたのかも知れません。
現代人の価値観では朝廷側の方が悪役に見えるかも知れませんが、異文化間での衝突は珍しくもないのに種のレベルで違っていれば、それは善悪では図れない生存競争にまで発展するのも仕方ないことだったのではないでしょうか。
日本書紀の土蜘蛛の記述はまだ人の個性の範疇かもしれませんが、古事記に記載がある方についてはホモ・サピエンスでは到底考えられないですよね。
このコメントで思い出したのですが、宮古島などの沖縄県の島々には琉球王国からの圧政から小島を守った護島の英雄の石碑があります。しかし、そこで祀られている人物は歴史の本の中ではある種『まつろわぬ民』、辺境の無法者のような扱いを受けていました。
歴史、民俗伝承を見るにも多面的な視点を持たなければならないと感じました。