分福茶釜のお話
蜻蛉も山から降りて来るようになり、いよいよ秋の足音が身近に聞こえ始めたこの頃でございますね。
こんばんは、二度目のお目通りありがたく、狸森泥舟でございます。
暑い日が続いておりましたが、昨日今日などはだいぶ涼しく、過ごしやすうございましたね。
こう涼しくなってくると、客人をもてなすお茶も冷たい物から温かい物へ、お湯を沸かす機会もふえてまいります。
さて、我が家で湯を沸かすのは、もっぱら土瓶の役目でございますが、とある寺では大層変わった茶釜で湯を沸かしていたようで、本日はそんな茶釜のお話をひとつさせていただこうかと思います。
『分福茶釜』そう聞けば、みなさん心当たりがおありになるでしょうが、今、みなさんの脳裏に逡巡したのはどんな物語でございましょう。
おそらくは、不思議な茶釜〝になった〟化け狸をおもい描いた方が多いのではございませんか?
しかし此度は、不思議な茶釜〝を持っていた〟化け狸のお話。
室町の時代、時は応永三十三年、大林正通禅師(だいりんしょうつうぜんじ)は伊香保山麓で出会った守鶴(しゅかく)を伴い館林で小庵を結び、後に青柳城主赤井正光の寄進により青龍茂林寺を開山しました。
その後、茂林寺にて守鶴は壮年の相貌でそれ以上歳をとらず、代々住職に仕えました。
元亀元年、茂林寺で千人法会が催された折、守鶴は一つの茶釜をどこぞより持ってきて茶堂に備えました。
不思議なことに、その茶釜の湯はいくら汲んでも尽きることがなく、たった一つの湯釜で大勢の来客を賄うことができました。
守鶴はこの茶釜を、福を分け与える『紫金銅分福茶釜』と名付け、その釜から汲まれた湯を口にした者は開運出世、寿命長久など八つの功徳を授かると言いました。
そして歳月が過ぎ、天正十五年、守鶴が居眠りをしている様子を十代目の住職が覗いたところ、手足には毛が生え、法衣の裾から尾がのぞき、人ではないことがわかりました。その尾は狸の物でありました。
実は数千年を生きた狸であって、かつて天竺で釈迦の説法を受けたこともあり、大陸を渡って日本に来たのだと、文字通り尻尾を出してしまった守鶴は己の正体を明かしました。
正体が露見した守鶴は、自ら寺を去らねばならぬと別離を決意するが、寺を去る前に幻術によって源平合戦や釈迦の入滅を人々に見せたのだでした。
人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狸の姿にもどって飛び去っていきました。
いかがでしょう。みなさんの幼い頃に聞いた分福茶釜のお話とは大分ちがったのではないでしょうか。
この守鶴、かの葛飾北斎も絵にしています。あいきゃっち画像のものはまさにそれでございます。
趣深いことでございます。
それにしても、お話の最後はなんとも切ない別れでございましたね。
私なぞは正体が露見してもふてぶてしく居座ることも吝かではないのですが、守鶴さまは御自分の中になにやら譲れないものがあったのやもしれません。
おっと、またもや狸に寄った言葉が口をついて出てしまいました。申し訳ございません。
さて、茂林寺に伝わる分福茶釜のお話をさせていただきましたが、おとぎ話でよく耳にする茶釜に化ける方のお話は、海外にも伝わっているそうですね。
その上、最近はいろいろと形を変えた物まであるとか。
形を変えるのは狸のお家芸でございますから、無理もございませんね。
それに、時代に添うように、人々に合わせ物語りは形を変えてまいります。
我らもまた、そんな人々に添うように姿を変え、在り方を変え、ともに行く所存。
どうぞ、こころの片隅に、いつも我らの在る場所を……。
ふふふ……そういえば、昨今茶釜に化ける狸たちの中には、時流に乗ってIHに対応するように化ける者もいるとかいないとか……
……
知ってか知らずか、それを絵に描いた物好きもいたようですよ。
それでは、此度はこの辺りで。
また、お目にかかります。
何気に、守鶴は日本の狸じゃないんですよね。と言いますか、実は狸ですらないのかも?
例えば荼枳尼天の乗り物は元々キツネではなくジャッカルですし、当地のタヌキ的な何かだったとか。中国では『狸』は妖術を使うヤマネコのことでしたし。
そう言えば、魔法様ことキュウモウ狸も南蛮船で渡ってきた海外出身者でしたね。かつては狸もワールドワイドな妖怪(動物)だったのか、それとも正体からして化かされてるのか…。
狸ではない、という話も実はあります。狢であって狸ではなかったと。つまり、あなぐまということですが、これは茂林寺の公式サイトでも触れられており、狸であったという説もある、としていますね。
私としましては狸であったと言うことでお話させていただいていますけれど、実際どちらだったのかは知る人ぞ知るでございますね。