天皇と妖怪(崇徳院)
即位礼正殿の儀が令和元年10月22日に執り行われました。即位礼正殿の儀は、即位した天皇が日本国の内外に即位を宣明する儀式であり、海外からも多くの来賓が参列されていました。
私もNHKで中継を観ましたが、立派な儀式で見ごたえがありました。
儀式では三種の神器のうち、天叢雲剣と八尺瓊勾玉が用いられます。(残りの神器である八咫鏡は、宮中賢所から移動ができない)
天叢雲剣は、雨や雲とゆかりがある伝承を持つため、10月22日の朝から雨が降っていたことが話題になりました。
さらに、その雨が即位礼正殿の儀の始まる13時前には弱まって日が差し、皇居に虹がかかったことも話題になりました。
一部では、天皇陛下がリアル「天気の子」ではという言説も見られました。
怨嗟を持ち非業の死を遂げた崇徳院
今回は、皇室や日本の歴史にとって目出たいイベントでありましたが、天皇家の歴史は、日本の政変の歴史でもあるだけに、必ずしもよい面だけではなく、暗い歴史も抱えています。
その中でも、歴史に翻弄され、この世を恨んで亡くなり、その魂が怨霊とも妖怪ともなったと云われている人物がおります。
第75代天皇にして、平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐(香川県)に配流後は讃岐院とも呼ばれた、崇徳天皇(崇徳院)です。
崇徳院は、菅原道真、平将門とともに、「日本三大怨霊」と呼ばれることもあります。
崇徳院は保元の乱での敗北により讃岐に流され、同地で没しました。死後は金色の大きな鳶の姿に変化し、天狗の首領になったと云われます。
西行法師は、僧侶であり歌人でもありましたが、生前の崇徳院と和歌のやり取りを行った逸話があります。
その西行法師が讃岐の白峰を訪れ、崇徳院の墓にやってきたとき、暗闇に突然嵐のような風が吹いて、鬼火のような崇徳院が現れました。
「崇徳院よ、迷わずに成仏せよ」と西行法師が言うと、崇徳院は怒って叫びました。
「西行よ、私の怨みがどれほどのものか、朝廷やこの世の者に思い知らせてやる。私は今や天狗を操る、白峰山の魔王と化した。やがてこの世に大戦乱を起こしてみせる」
天下分け目の源平合戦(治承・寿永の乱)がはじまったのは、それから間もなく1180年のことでした。その後、日本国内は幕府により一時的に治められることはあっても、内乱が続く時代を過ごします。
白峰神宮への慰霊
幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、まもなく崩御しました。
明治維新後、明治天皇は父である孝明天皇の遺志を継ぎ、京都市上京区に白峰神宮を建立し、讃岐の白峰御陵より崇徳上皇の霊を京都に招き、神として祀ることでその霊威を鎮めたとされます。
崇徳院は、怨霊として語られることが多くありますが、しばしば分類として「妖怪」の一種としても語られます。
日本国のシンボルである天皇でさえ取り込んでしまう「妖怪」という奥深いジャンル、「妖怪」という日本国有の文化を発展させていくことが、これからの日本には必要なのかもしれません。
画像=歌川国芳画「讃岐に流された崇徳上皇」、白峰神宮(京都市)
文=渡邉恵士老
参考文献:「決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様」(水木しげる、講談社文庫)、「日本妖怪大事典」(水木しげる、村上健司、角川文庫)
■渡辺恵士老(けいちゃん)
北海道旭川市出身。早稲田大学人間科学部卒。在野の妖怪研究家。
現在は北海道札幌市と東京の二拠点生活をしながら、経営・ITコンサルティングを生業としているが、大学の時には民俗学・文化人類学を学んでおり、ライフワークとして妖怪の研究を続けている。
現在住んでいる北海道にまつわる妖怪や、ビジネス・経済にまつわる時事ニュースと絡めた妖怪の記事を執筆中。
Twitter:https://twitter.com/keishiro_w
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