愛の半身は自分自身だった──『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』に見る妖怪的自己の再生

はじめに:魂を揺さぶるロックミュージカル
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』という映画を初めて観たとき、魂を殴られたような衝撃を受けた。ロックなミュージカルでありながら、性やアイデンティティの葛藤、そして何より「愛とは何か」というテーマに真正面から切り込んでくる。その物語の中心には、愛されたいという本能的な欲求と、それを満たそうとするあまり自己を引き裂いてしまう痛みがある。
「愛の起源」が語る神話と欲望
作中の楽曲「愛の起源(Origin of Love)」は、哲学と神話と感情が渦巻く名曲だ。プラトンの『饗宴』をもとに「人はもともと二人で一つだった」という神話を語りながら、なぜ人が誰かを求めるのかを問い続ける。この神話的構造は、恋愛だけでなく、自分の中の“欠け”を埋めようとするすべての行動と重なる。トミーと出会ったことでヘドウィグは「見つけた」と思ったが、それは幻想にすぎなかった。その喪失は、自分の存在そのものが否定されるような痛みを伴う。

妖怪的な自己否定の旅
何度も観るうちにこう思った。この「もう一人の自分」を探す旅って、妖怪的だな、と。妖怪というのは、人間が見たくないもの、抑圧してきたもの、恐れてきたものの具現化だ。社会的な規範からはみ出した「異形のもの」が姿を持って現れるとき、それはしばしば、私たち自身の裏側でもある。つまり、ヘドウィグが自らを否定し、トミーに依存していった過程は、自分の“妖怪”を抑え込もうとしたとも言える。
半身ではなく“影”としての自分
ヘドウィグが探し続けてきた“半身”とは、もしかしたら彼女自身が否定し続けてきた自己──愛されず、拒絶され、切り捨ててきた過去の自分なのではないか。人は誰しも、過去の自分や醜さ、弱さをなかったことにしたい瞬間がある。でもその「影」を押し込めたままでは、いつか必ず噴き出してくる。そしてそれはしばしば、妖怪のように予期せぬかたちで現れる。
クライマックス:妖怪との共存
映画のラスト、ヘドウィグはウィッグを脱ぎ捨て、自分のままの姿で歌い、歩き出す。誰かに満たされることを期待するのではなく、自分の痛みを抱きしめて進む姿は、「妖怪化した(否定してきた)自分」との共存のようにも見える。ここでようやく、彼女は他者に“癒やされる”ことを諦め、自ら癒やすという境地に辿り着く。それは自己と向き合い、受け入れることでもある。
妖怪的視点で見る「愛」と「癒やし」
愛とは、誰かに“埋めてもらう”ことじゃない。自分の不完全さを、そして裏側の自分を、受け入れることから始まるんじゃないか。妖怪は、人間の裏面である。そしてヘドウィグもまた、自らを裏返しにした存在だった。だからこそ彼女は、否定したい部分を否定するようにに生き、結局はその否定してきた自分自身に癒やされたのかもしれない。これは「他者と一体化することで完成する」という愛の神話を否定し、「自分自身を丸ごと抱きしめる」愛へのシフトでもある。
おわりに:人は皆、妖怪を飼っている
人は皆、どこかに妖怪(否定したい自分自身)を飼っている──そんなことを思いながら、今日もまた「愛の起源」を聴いている。それは、他人に理解されない部分であり、世間から見えにくい傷であり、でも確かに自分の一部であるもの(男を否定するために切り取ったが、残ってしまった怒りの1インチ)。ヘドウィグの物語は、そんな“妖怪”との共生を描いた現代の寓話なのかもしれない。
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