鳥山石燕についてちょっと語ってみる
こんにちわ。妖怪屋です。久しぶりに自分で記事書きます。
今日は、妖怪の世界にめちゃくちゃ影響を与えた人物、妖怪画のレジェンド、鳥山石燕について、木場貴俊先生著の「怪異をつくる」を拝読したアウトプットとしてちょっと語ってみようと思う。最後にリンクも載せます。
鳥山石燕とは?
鳥山石燕てのはいわゆるペンネームのようなものでして、本名は「佐野豊房」といいます。狩野周信や玉燕に学んだ狩野派の町絵師で、お弟子さんには喜多川歌麿、恋川春町などがいた模様(喜多川歌麿はしってた!)。代表作として「画図百鬼夜行」があり、多くの妖怪画家や浮世絵師が模倣したり、かの水木しげる先生もかなり多くの妖怪を石燕の妖怪画をベースにしていたりします。当時にしては狂歌の大田南畝に歌を詠まれるほどに超売れっ子だったのだそうです。
周辺の文化人たち
- 俳諧:東柳窓燕志(とうりゅうそうえんし)
- 狂歌:大田南畝(おおたなんぼ)、朱楽菅江(あけらかんこう)
- 儒学:林懋伯(はやしぼうはく)、千葉芸閣(ちばうんかく)
錚々たるメンバー!超知識人に囲まれていました。ちなみに何故、周辺の文化人を列挙したかというと、鳥山石燕の画図の表現には、上述した周辺文化人の要素が色濃く反映されているからなのです。画図百鬼夜行の自跋(作者のあとがき的なやつね)のなかで
「詩は人心の物に感じて声を発するところ、画はまた無声の詩とかや、形有りて声なし、そのことごとくによりて情をおこし、感を催す」
とありますが、ようするに
「画は声のない詩であるし、詩は声のある画、どちらも人を感動させる源流としては同じ」
というメッセージがこめられていて、実際に中身が詩と画が密接に絡み合った創作物であったものであることがわかります(画だけでなくちょっとした歌のようなストーリーがついていた)どうやら鳥山石燕を知る上ではこうした周辺文化人やその人々の土台となる文化背景、営為のことも知らねばなりますまいよ。
実は内輪ネタ?!
画図は「子供だけが楽しむものではない」と自跋でも語っている通り、鳥山石燕の作品の中には周辺の人間関係を「いじる」沢山の遊び心が含まれていました。中にはえ?そーなの?!と思う妖怪の由来についてもあったりしたので少し紹介してみます。
- 火まむし入道 → 文字遊びのへまむし入道
- 泥田坊 → 狂歌師に泥田坊夢成とコトワザの「泥田を棒で打つ」から
- 瓶長 → 恋川春町(お弟子さんね)を化け物に仕立てた
- 塵塚怪王 → 徒然草「多くして見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵」
- 文車妖妃 → 同上
泥田坊なんかは結構有名な妖怪なので、妖怪好きの人でもきっと「え?そうなの?」となった人もいるかもですね。内輪以外の人から見るとただの「田を返せ〜〜」と呻く妖怪ですよね。私なんかはうっかり、それらしい民間伝承があったりするのかなーなんて思ってましたけど…実際はただの内輪ネタだったりもするのですね。
フィクション(虚構)で遊ぶ文化
江戸後期、ただの噂や現象だったものが、鳥山石燕をはじめとする絵師や文化人たちにより、新しい情報を付与されて、フィクション(虚構)に特化させて娯楽として楽しまれるようになりました。あれれ?皆さんここで現代に置き換えてみてください。「噂や不思議な現象を脚色、拡張」これって今も同じような事して楽しんでいませんか?創作コスプレ、コラ画像、漫画、アニメ、創作怪談。いろいろありますが、日本文化の根底にある気がしてきますね。さっき触れた「内輪ネタ」的なものも現代でも盛り上がりますよね。
2020年1月にアニメがスタートした虚構推理なんかまさにそういうことだと思いました。(妖怪もでてくる)ネタバレになるのでストリーは控えますけど。
結局どんな人だったのか…
鳥山石燕。遊び心も想像力も創造力もずばぬけた人だったことは感じられたのですが、結局のところどんな人物だったのか、触りの部分しか語ることができませんでした。うーむ。まだまだ勉強不足なので、もう少し語れるぐらいに深く深く潜っていきたいと思います。
次は画図の種類について語ってみようかな。お楽しみに!
参考
木場貴俊先生著「怪異をつくる」
https://www.amazon.co.jp/dp/490965822X/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_aJhMEb1JEDVTH
アニメ虚構推理
https://kyokousuiri.jp/
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